スカルノ大統領の死因は?最期を看取ったのは年齢差39歳のデヴィ夫人だった!

スカルノ大統領の死因は?最期を看取ったのは年齢差は39歳のデヴィ夫人だった!
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スカルノ大統領はインドネシアの初代大統領であり、独立運動の指導者として知られています。

そしてスカルノ大統領には多くの妻がいて、その一人はデヴィ夫人とのことで有名です。

1965年にクーデータが起こり、スカルノは実権を失い、その5年後亡くなりました。

この記事ではスカルノ大統領の死因は何だったのか?デヴィ夫人との関係なども交えながら紹介していきます。

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目次
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スカルノ大統領とデヴィ夫人について

スカルノ大統領とデヴィ夫人について紹介していきます。

1959年にスカルノ大統領とデヴィ夫人は出会い、結婚しました。

デヴィ夫人は、その美貌や華やかな社交活動から「東洋の真珠」と称されました。

スカルノ大統領は1901年生まれ、デヴィ夫人は1940年生まれなので、年齢差は39歳でした。

二人の馴れ初め

デヴィ夫人は当時、家族を養うため、モデルや女優の勉強をしながら銀座のホステスとして働いていました。

1959年銀座の有名高級クラブ「コパカバーナ」で出会ったスカルノ大統領は、デヴィ夫人の美しさに魅了され、

「2週間ほどインドネシアに遊びにいらっしゃいませんか?」とジャカルタに誘ったそうです。

スカルノは手紙、詩、贈り物(花や宝石)などを送り熱烈な求愛でした。

高級クラブでは「プリンセス」と呼ばれていた

若い頃のデウィ夫人
若い頃のデウィ夫人

デヴィ夫人はとても綺麗でハーフの様に見えるけども
日本人の両親の元で生まれているのですね!

デヴィ夫人にとって人生における「ターニングポイント」でした。

「普通では行けない場所に行き、会えない人に会い、さまざまな体験をしてきました」

ちょうどその時期に「母と弟を立て続けに亡くした」という個人的な悲しみを経験し、
スカルノ大統領に専念する決意を新たにし、「デヴィ・スカルノ」第三夫人になったと語っています。

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スカルノ大統領の死因は?

スカルノ大統領(69歳)の死因は、1970年6月21日早朝にジャカルタの自宅で死去、老化による慢性心不全。

彼は慢性心不全や腎臓病、糖尿病などの健康問題を抱えていました

9月30日事件:スハルトによるクーデーターが起こり、事実上の軟禁状態に置かれ、
インドネシアに対する支配を失い、
精神的にも肉体的にも衰弱していた状況だったとも言われています。

デヴィ夫人と娘はフランスへ亡命。1970年、大統領危篤の知らせを受け、死を覚悟して向かいましたが、
結局、大統領と娘の対面はかないませんでした。

死去の際、彼には多くの支持者がおり、国民に深い悲しみをもたらし、国葬が行われた。


独立の英雄として国父としての名声や存在は今もインドネシアで生き続けています。

スカルノ大統領は最高額面の10万ルピアの紙幣にも使用されています。

インドネシア初代大統領。国父として敬愛され、10万ルピアの紙幣にのる

クーデータの背景

スカルノ大統領率いるインドネシアは国際連合を脱退し、欧米諸国からバッシングの対象にありました。

インフレや食糧不足で国民が苦しみ、不満が高まり、
スカルノが共産党に近づき、軍や反共勢力が反発し、
「指導される民主主義」で権力を握りすぎ、批判されました。

9月30日事件について語られている
2012年の映画「アクト・オブ・キリング」では当時の様子がわかる映画もあります。

9月30日事件の被害者は「50万人~200万人」だと言われています。

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スカルノ大統領の最期を看取った妻は?

インドネシアの初代大統領スカルノの第三夫人だったのはデヴィ・スカルノ夫人です。

スカルノのそばにいた妻として最も注目されていた一人です。

スカルノ大統領が危篤の知らせを受けたとき、デヴィ夫人は30歳で一人娘とフランス・パリに亡命中でした。

当時の事を話しているコメントがあります。

パリに亡命中の30歳のとき、大統領が危篤との知らせを受けて帰国しようとしたとき、友人から「殺されに行くようなものよ」と大反対されました。でも、人生はゼロから始まり、またゼロになるのは全然怖くない。殺されても夫に会いたい、殺されるならどんな死に方をしたかを報じてもらいたいという覚悟でパリを発ちました。  美st

実際にスカルノ大統領が亡くなるまで看病をされていたのかどうかではこちらの

3年ぶりに会った夫は懸命に死と闘っていました。私は悲鳴を上げて泣き崩れましたが、そばで看病することも許されず、郊外の別荘に連れて行かれ、翌朝夫が亡くなったことを知りました。

スカルノ大統領のそばで手厚く看病することは許されない状況だったようですが

デヴィ夫人は最後まで一緒にいるような気持ちでいらしたことでしょう。

1970年代パリにて

デヴィ夫人はパリの社交界でも目立ち、独自の地位を築きあげます。

この時期、彼女は多くの国の著名人と交流し続け、国際的な場でその影響力を広げていきます

2000年代からはニューヨークと日本を行き来するようになり、今では日本のテレビ番組に出演することも増えました。

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